生まれ育った《ヴァルタータ》を後にしたリヴァ。
彼の胸には、もう何も残されていなかった。
復讐でも野心でもない。
ただ、深く静かで鋭い焦燥感だけが、彼の足を前へと進ませていた。
何かが壊れ、手をつけられぬまま放置された心。
それでも彼はひとつの決意を抱いていた――
この目で、この世界の「本当」を見てみたかった。
最初に辿り着いたのは《魔喰いの谷》。
かつて魔族が栄えていたこの場所も、今や瘴気に沈み、かつての豊かな集落の面影すら消えていた。
彷徨う魂の抜け殻だけが、虚ろな風に流されている。
呻き声が、風に混じりながら地を這うように響いていた。
リヴァは朽ちた石門の前で足を止める。
「……ここも、終わった世界か。」
その荒れ果てた地で、リヴァはひとりの少女と出会う。
彼女の身体は半ば骨と化し、空虚な笑みを浮かべていたが、それでもなお彼女は無邪気さを保っていた。
「ねえ、わたしを見て笑って。」
涙の痕跡すら残さないその眼差しに、リヴァは無言のまま腰を下ろし、掌に静かな炎を灯す。
それは温もりを求めるためではなく、彼なりの弔いの方法だった。
「……お前を見て笑えるこの世界なんて、俺が壊してやる。だから、安心して眠れ。」
少女はひとつだけ笑い、そして灰となって崩れ落ちた。
その灰を肩に受けながら、リヴァは静かに立ち上がる。
「苦しいのは、俺だけじゃなかったんだな……」
その瞬間、彼の中で何かが変わりはじめていた。
外の世界に触れて、リヴァは初めて知った。
自分だけの痛みが、唯一無二のものではないこと。
誰にも届かぬ叫びが、この地にも存在していたのだと。
「……俺やお前みたいな存在なんて、虚王エレディアはきっと見もしなかったんだろうな。」
そう呟きながら、リヴァは再び歩き出す。
その背中に哀しみを背負いながら。
谷を抜け、彼が辿り着いた先――
そこには歪界《ワーヴェル》が広がっていた。
理が崩れ、現実がねじれた異界。
「なんだ…ここは……」
空は逆さに落ち、大地は空へと伸び、重力は宙に吊られ、時間すらも漂っている。
言葉は意味を失い、思想は自らを喰らう。
存在そのものが正気を蝕むその場所で、リヴァは進み続けた。
底のない空を歩き、重さのない雨に濡れ、耳を裂くような静寂に耐えながら。
やがて、ひとつの “ 塔 ” が現れる。
それは天へと伸びるのではなく、地の底に突き刺さる――現実から逸脱した “ 逆さ塔 ” 。
塔の手前には、崩れかけた石畳が幾重にも連なり、周囲の空間は不自然な静寂に包まれていた。
風もなく、音もなく、ただ遠くで低く鳴る耳鳴りのような残響だけが、空間の “ 外 ” から這い寄ってくる。
逆さ塔の根元には、かつて門だったものの残骸が無造作に横たわり、リヴァの歩みを試すように瘴気が渦を巻いていた。
リヴァは一歩、また一歩とその闇の裂け目に足を踏み入れる。
すると、空気が変わった。
重力の方向が曖昧になり、目に映るすべての線がわずかに歪みはじめる。
それは、塔の内部に入った瞬間だった。
中はまるで空間そのものが思考を拒んでいるかのようだった。
上も下もなく、壁と床の区別すら曖昧な世界。
光も影も、音も気配も、すべてが深い沈黙に呑まれ、存在という概念すらあやふやに溶けていく。
そして――
リヴァはひとつの “ 声 ” を聞く。
「何を壊したい? 世界か、己か?」
それは姿なき声、塔そのものが囁くように語りかけてきたのであった。
リヴァは沈黙を貫きながらも、その心には揺るぎない意志が滲んでいた。
「壊すためには、知れ。世界の核を。痛みの根を。王の罪を。」
塔の最奥、影と静寂が渦巻くその底で、リヴァは視た――
千年前、虚王エレディアがまだ《在る者》だった頃の最後の光景を。
王座の間。
沈黙の中で、黒き心臓を見下ろす男――虚王エレディア。
彼はかつて魔界を支配した絶対王。
誰も逆らえない、完全なる支配の体現者。
「我……世界をひとつに束ねたかった。」
エレディアの願いは “ 秩序 ” であり、混沌と憎しみに満ちた世界に自身の意志を律として打ち立てることだった。
争いや欲望、痛みさえも “ 管理 ” し、静かに統一された世界を創りたかった。
それが彼の “ 平和 ” だった。
そのために、エレディアは《神骸》に手を伸ばした。
それは神すらも喰らい、魂の構造を書き換える禁断の力。
それを取り込んだエレディアは、もはや “ 王 ” を超えた存在へと変貌した。
だが、その代償は大きすぎた。
神の力は純粋すぎ、理想も信念も欲望すらも呑み込み、エレディアはただ命じ、支配するだけの空虚な器へと堕ちていった。
喜びも怒りも理解もない、ただ “ 在る ” だけの存在――虚王。
「我は……己を保つために、自分自身を喰らうしかなかった。」
世界のためでも、誰かのためでもなく。
すべてを支配するために、すべてを喰らおうとした。
だが最終的に喰われたのは、自分自身だった。
己の心臓を喰らい尽くし、虚無となったその瞬間――
エレディアは初めて自分が " 王ではなくなった " ことを知った。
それでも、彼の “ 野望 ” だけは残り続けた。
その意志は《咎の烙印》として魔界に刻まれ、やがて王位継承の印を宿す者――リヴァの中に、静かに芽吹いていった。
リヴァ自身も気づかぬまま “ その呪い ” を受け継いでいた。
逆さ塔の闇の中、リヴァはそのすべてを視た。
それを知ったとき、彼の中の “ 憎しみ ” は、別の何かへと変わっていた。
「……俺は選ばれた王じゃない。だったら、こんな咎の烙印、俺が終わらせてやる。」
エレディアが築こうとした絶対の秩序。
それがどれほど脆く、歪んでいたのか。
リヴァは、そのすべてをこの目で見届けたのであった。
