逆さ塔を後にしたリヴァの瞳には、かつてないほどの「確かな意志」が宿っていた。
しかし、その意志を貫くためには、何かを差し出さなければならない。
エレディアが神骸に喰われたように、世界に手を伸ばす者には必ず代償が伴う。
《ワーヴェル》の最深部に存在する焦熱門。
それは世界の裏側、神骸の眠る無の核へと通じる伝承の門。
かつてエレディアもこの門を越え、自らを「王」ではなく「器」として差し出したとされる。
今もその門は、意志ある者を待ち続け、運命の裁定を下すために呼びかけている。
「止まれ。ここを通れるのは選ばれし者のみ。」
リヴァの歩みを止めさせたのは、門を守りし番人だった。
黒鉄の仮面をかぶったその影は、まるでかつて存在した誰かの「可能性」が剥がれ落ちた後の抜け殻のようだった。
全身を覆う漆黒の鎧には、幾千の戦いで刻まれた傷が光を呑み、剣を構えたその姿には一切の躊躇がなかった。
「意志を掲げる者よ。魂の価値を力で示せ。」
番人が剣を振るう。空気が砕け、焦熱の大気が裂ける。
黒鉄の剣が斜めに振り下ろされ、リヴァは咄嗟に剣を掲げて受け止める――が、その一撃は重すぎた。
「クッ!」
膝が崩れる。腕に走る衝撃が骨に響き、指先が痺れる。
受け流したはずの斬撃が、鎧越しに肉を裂いた。
左脇腹に熱い痛みが走り、紫の血が噴き出す。
それでも立ち上がる。
番人の斬撃は続き、リヴァの迷い、怒り、痛み、それらを引きずり出しては打ち砕こうとする。
しかしリヴァも負けてはいない。
「…この世界で…ずっとひとりで生き抜いてきた俺を……舐めんじゃねーよ!」
リヴァの剣が、血を滴らせながら逆風を切る。
錆びついた刃が番人の攻撃を受け流し、返す斬撃は魂を削るように重い。
だが、番人の反撃はさらに苛烈だった。
再び地面に叩きつけられ、咳き込むと血が滲む。
(やっぱり……こいつは、「試す」だけの存在じゃない。俺を、殺しに来てる――)
けれど、その瞬間、リヴァは笑った。
「そうか……だったら、余計に負けられねぇな。」
その瞬間、彼の額にある王位継承印が浮かび上がる。
その光が彼の剣に宿ると、刃が光を放ち、空気ごと震わせた。
「……?! 王族のシジルを宿すムートだと?!」
番人は驚いた様子だが、剣を降ろそうとはしない。
そして番人の剣とリヴァの剣が、最後の一撃でぶつかり合う。
爆ぜる熱、砕ける音、そして――静寂。
リヴァは右膝をつき、肩で息をしていた。
傷は深く、血は止まらない。
しかし彼の視線は揺らがなかった。
番人の仮面の奥にあったのは、顔ではなかった。
無だった。
選ばれなかった者、可能性を失った者たちの「無言の後悔」――その空虚が、リヴァを試していたのだ。
「……痛ぇよ、クソが。でも、これでやっと “ 前 ” に進める。」
傷口を手で覆いながらそう言い放つリヴァ。
番人はゆっくりと崩れ落ちるように消えていった。
残されたのは、静かに脈動する焦熱の門。
リヴァがその門に近づくと、《王位継承印》――虚王エレディアが遺した禁忌の印が熱を帯び、炎のように灼け始めた。
それが門を起動させ、世界の因果が狂い始める。
空が裂け、大地が灼け落ち、世界が血のように赤く染まり、焦熱の風が吹き荒れる。
その中に、獣のような影が現れる。
そしてその中央に、姿を現したのは――「記録者」たち。
古の観測者たちが、世界の狭間から姿を現した。
「な…何者だ…貴様らは……」
「警戒しなくとも良い。我々は傷つける者にあらず。」
一人の記録者が静かに歩み寄り、無言のままリヴァに手をかざす。
空気が震え、彼の身体を覆うように淡い光が降り注ぐ。
傷口が音もなくふさがり、熱と痛みがすっと引いていく。
「……?!」
それは恩寵ではなく「試すための準備」――戦いに傷を持ち込むことを許さぬ厳正な儀式。
「選ばれし者よ……その意志に、魂の価値はあるか?」
その声は深く、重く、嘲りと哀しみを含んで響く。
幾千の王を裁き、幾万の英雄を試してきた、古の力の声だ。
記録者たちは、リヴァの記憶に手を伸ばす。
彼がムートとしてヴァルタータに生まれたこと、紋章を持たぬ忌み子として蔑まれた過去、世界から断絶され続けた孤独の日々。
それらの痛みが、形を持つ炎となり、彼を焼き尽くそうとする。
その炎に焼かれながら、リヴァは膝を踏みとどめた。
しかし、ふと考えが静まる。
(……俺は、ずっと「世界をぶっ壊す」って言ってきた。 でも、それはただの叫びだった。)
(壊したかったのは「世界」じゃない。俺を拒み、縛り、見下ろしてきた「仕組み」そのものだ――)
リヴァは一歩を踏み出す。
さらに一歩。
それは復讐でも英雄の旅でもない。
彼が世界に選ばれるのではなく、彼が自らの意志で選び取る決意だった。
「……俺は “ お前らのため ” に進むんじゃない。俺のためだ。壊すのは世界じゃない。お前らが勝手に敷いた「運命」そのものだ。」
その言葉と共に、リヴァの王位継承印が輝き始める。
彼の剣が熱を帯び、形を変えていく。
それは虚王の意志を歪め、自らの力に転じた証――《歪刃イーデル》。
記録者たちは、その場を退いた。
リヴァが「器」ではなく、「意志」そのものであることを、彼らは見届けたのだ。
リヴァは足を止め、振り返る。
焦熱の門が静かに閉じる気配を背に、光の向こうへと退こうとする記録者に向かって声を投げた。
「……答えてくれ。 なぜ “ ムート ” の俺に、王族の印が宿った? この印は、どういう存在だ?」
一人の記録者が立ち止まり、ゆるやかに振り返る。
その声は、静かで深く、しかし感情の輪郭が曖昧だった。
「それは “ 血 ” に宿るものではない。 “ 意志 ” に呼応しただけだ。 過去、王となった者も、器となった者も、皆…印に選ばれた。 印が “ 選んだ ” のだ。運命に抗う者を。」
「お前もまた “ そう ” 在った。ただそれだけだ。」
記録者はしばし沈黙したまま、ただリヴァを見つめていた。
その視線に、憐れみも、尊敬も、警告すらもなかった。
ただ、すべてを見届ける「記録者」としてのまなざし――。
やがて彼は、そっと顔を伏せ、かすかに頷く。
「……意志は、常に孤独を背負う。 それでも歩むと決めたのなら、我らはもう干渉しない。」
他の記録者たちも静かにその場を離れ始める。
一人、また一人と、霞に還るように、空気のゆらめきの中へと溶けていった。
最後の一人が消える間際、囁くように言葉を残す。
「願わくば、お前の “ 運命 ” が、お前自身のものとなるように。」
静寂が戻る。
焦熱の門をくぐった先には、リヴァただ一人が立っていた。
目の前に広がるのは、すべてを呑み込む「無」の核――《神骸》。
リヴァはその先へと歩みを進める。
「……終わらせてやる。全部だ。」
この瞬間から―― リヴァは「終焉を目指す者」ではなく 「運命を選び直す者」へと変わった。
