流民たちの野営地には、ひとときの静寂が訪れていた。
戦の余熱がまだ地を這い、空気を焦がしているというのに、民たちはただ、黙って座り込んでいた。
焚き火はほとんど燃え尽き、黒ずんだ灰の上で、か細い炎が最後の光を揺らしている。
その中心に、カーヴァはひとり佇んでいた。
かつて高く掲げた “ 解放の旗 ” は、もう彼の手にはない。
象徴だったはずのそれは、今や焚き火の中で、静かに、ゆっくりと燃え崩れていた。
はらはらと布の端が落ちるたび、誰かの胸の奥でも、何かが剥がれ落ちていくようだった。
カーヴァは、消えかけた焚き火を見つめたまま低く呟いた。
「……俺は、間違っていたのかもしれない。 自由ってのは、掲げるもんじゃない。選ばせるもんだったんだな。」
その声は、闇の静寂を破った。
自然と人々の視線が彼へと向かう。
かつて彼を “ 英雄 ” と称えた者も “ 反逆者 ” と罵った者も、今はただ、ひとりの男の言葉に耳を傾けていた。
その言葉に怒りも激情もなかった。
ただ、過ちを受け入れた者の静かな悔悟と、そこから始まる新たな歩みの気配があった。
やがて、焚き火の残り火を踏み越えるようにしてリヴァが現れた。
何者でもない顔のまま、いつものように音もなく歩いてくる。
「……決めたのか?」
問いかけは簡潔だった。
だがその声には、どこか深いところで共鳴するものがあった。
カーヴァはゆっくりと頷いた。
その顔には、敗北の色はなかった。
ただ、静かに何かを手放した者の強さがあった。
「俺は、王にはならない。 自由の名のもとに誰かを縛るぐらいなら――この命を手放す方がマシだと思ってた。 でも今は違う。俺は、生きる。 自分の旗じゃなく、誰かの “ 明日 ” のために」
その言葉は、燃え尽きかけた野営地に確かに響いた。
民たちの間に、小さなざわめきが生まれる。
誰かが息を呑み、誰かが剣を土に突き立てる音が、ひとつ、またひとつと続いた。
心の奥で、まだ名もない風が吹き始めたのだ。
リヴァは、カーヴァの顔をまっすぐに見つめていた。
どれほどの傷を抱え、どれほどの声を背負って、彼がここに立っているのか――
知る術はなかったが、それでもわかる気がした。
「……それでいい」
リヴァはそれだけを言った。
それは承認でも慰めでもない。
おそらく、自分自身にも向けた静かな宣言だった。
その瞬間、東の空が淡く色づき始める。
夜の帳がゆっくりと退き、雲に隠れていた月の光が魔界の荒野を照らし始めた。
風が吹いた。
焦げた土と、乾いた剣の匂い、そしてかすかに希望の気配を孕んだ風が。
カーヴァは手にしていた弓をそっと地に置いた。
それは敗北ではなかった。
それは――選択だった。
誰かを導く王ではなく、誰かと共に生きる “ ひとり ” であることを選ぶという静かな決意。
自らの旗を燃やし、未来という名の風に身を委ねるための確かな一歩だった。
魔界四傑の一角、《反旗のカーヴァ》。
その旗は失われた。
だが、彼の意志は、新しい風となってこの地に吹き始めていた。
そして、その風をリヴァは肌で感じていた。
「……止める理由は、もうどこにもないな」
彼は、誰にともなくそう呟いた。
そしてその場を去らずに――ただ、その風の中に静かに立ち続けていた。
