深い霧が廃都を包み込んでいた。
石畳は崩れ、水がしみ出したように冷たく湿っている。
瓦礫と骸が積み重なった道の先――その中央に、ひときわ静かな気配があった。
リヴァは歩みを止め、ひと息つく。
この地は、今や沈黙の海の底にあるかのように、音という音を失っていた。
だが、その “ 奥 ” に何かがいる。
呼ばれたわけではない。ただ、そう感じた。
自分はここへ辿り着くべきだった――否、辿り着いてしまったのだと。
やがて彼の視界の先、霧がわずかに晴れる。
円形の石舞台。その中央に、ひとつの影が佇んでいた。
黒い衣が水にゆらぐように揺れ、長柄の鏡杖が静かに光を映す。
仮面を戴いた巫女。
《骸禍のネイラ》
その場に踏み込んだとき、音が生まれた。
それは言葉ではなく、意志を持った “ 響き ” ――。
「あなたの名は……リヴァ、ですね。」
澄んだ声が、水面に一石を投じるように広がった。
それは風でも、水音でもなく――亡者すら耳を澄ます、ひとつの “ 呼び名 ” だった。
神殿の中央、かつて祭壇だった円形の石舞台。
そこに、ネイラは佇んでいた。
水面のように揺れる水衣、手にした長柄の鏡杖は、光でも炎でもなく、魂の “ 痕 ” を映し出す。
「名を持たぬはずのあなたが “ 名 ” を掲げてここに立つ……奇妙なことですね。」
リヴァは沈黙したまま、剣を抜かずにその場に立つ。
その目が問いを帯びて、仮面の巫女を見据えていた。
「……ここは死者の領域だと聞いた。なら、なぜ生者がその門を守っている?」
仮面の奥で、ネイラのまなざしが静かに揺れる。
その声は、鈴の音と共に、深い水底から立ち昇る霧のようだった。
「守っているのではなく “ 導いて ” いるのです。名を喪い、形を捨てた者たちの、最後の在処へと。」
小さな銀の鈴が、彼女の杖に吊られていた。
リヴァの問いに応えるように、かすかに鳴る――まるで過去そのものが息づくように。
「けれど、あなたはまだ導かれる者ではない。」
「じゃあ俺は、ここに来るべきじゃなかったか?」
「いいえ。あなたは “ まだ ” 来るべきではなかった。けれど、流れとは時に、意志すら呑み込むものです。」
その声音に、怒りも喜びもない。ただ、諦めに似た、深い慈しみだけがあった。
「……聞かせてください。なぜ、あなたは私の元へ来たのですか?」
リヴァはわずかに視線を落とし、言葉を探す。
だがその声音は、決して迷ってはいなかった。
「……俺は、知らなきゃいけない気がした。魔界を、四傑を、そして――お前自身を。」
「知って、どうするのです?」
「進むために。立ち止まらずに。」
ネイラは黙したまま、杖をそっと掲げる。
その鏡面に、水底の影のように揺れる何かが浮かび上がる。
「ならば “ 死 ” に触れなさい。」
彼女の声は静かだったが、それは明確な “ 許し ” だった。
「過去の骸、滅びの記憶、抗えなかった願い……ここは、それらの名残に満ちています。 あなたが望むなら――すべてを見せましょう。」
空が水を孕んだように揺らめいた。
空気が重たく沈み、見えない何かが蠢く。
それは、ただの対話ではなかった。
“ 魂 ” を問う儀式。
そして、ネイラという存在の扉に触れる、最初の一歩だった。
