塔の最奥。
かつて神の骸が蠢いていた空間には、いまや霧のような余韻すら残っていない。
深淵を孕んだ闇はすでに祓われ、澄みきった空気が満ちていた。
それは理が戻ったことを意味する静けさであり、同時に、かつてこの場を支配していた存在が完全に消えたことを物語っていた。
あたかも、永き悪夢の幕が閉じた後の朝のように――塔は呼吸を取り戻していた。
崩れた床の中心に、ジュダスが立ち尽くしていた。
彼の身体は疲弊しきっていたが、杖を握る手だけは力強く残っていた。
その胸元には、リヴァの剣が刻んだ痕があった。
だがそれは血を流す傷ではない。
深淵を信じ、理を捨てようとした男の “ 心 ” に刻まれた、拒絶と赦しの印――意志の爪痕だった。
「君の “ 信じなさ ” は、どこまでもまっすぐだな」
そう呟いたジュダスの声には、かつての狂信も絶望もなかった。
ただ静かな敬意と、わずかな解放が滲んでいた。
リヴァは剣を収める。
その動作に敵意も、警戒もない。
あるのは、決別と覚悟――自らの意志だけを頼りに歩む者の静かな決意だった。
「……これから、お前はどうする」
問うリヴァの声は、淡々としていたが、どこか遠いものを見据えていた。
ジュダスは小さく首を振る。
「世界はまだ、終わりを選んでいない。ならば私は、私の方法で抗い続けるつもりだ」
リヴァはわずかに眉をひそめ、問いかけた。
「……あれは、本物の神骸だったのか?」
ジュダスは、一拍だけ沈黙した後、静かに口を開く。
「否――限りなく近い模倣だ。 神骸の “ 断片 ” に、深淵会が数十年をかけて理と魔素を編み直し “ 接続された構造体 ” として創り出したものに過ぎない。 言うなれば、神骸という存在に “ 世界の側から ” 手を伸ばした結果だ」
リヴァは黙してその言葉を受け止める。
「だが、それは本物に触れた私だからこそ到達できた “ 歪な真似事 ” だ。 真実にはなれずとも、真実を模すことで、世界を揺らがせる程度には至った――君がそれを否定してくれて、今は救われているよ」
ジュダスの声は、どこか安堵に満ちていた。
彼は少し間を置き、杖を見つめた。
そこにはもはや神の力も咎の呪いも残っていない。
ただ “ わずかな疑い ” と “ 祈り ” ――それだけが、かろうじて灯っていた。
「だが……君という誤算が、果たしてどこまで “ 世界 ” を変えるのか――それを見てみたくなった」
リヴァは肩越しに一瞥する。
「俺は、誰かの期待に応えるために生きてるんじゃない」
「だからこそ、見届ける価値がある」
その時、塔の天蓋がゆっくりと開いていった。
かつて曇っていた空は、今や澄み渡り、透き通るような月夜が顔を覗かせる。
光が塔を満たし、風が吹き抜けた。
その風は、神骸の残滓を洗い流すかのようだった。
そして同時に、塔に巣食っていた“存在の外側”からの影響をも、そっと拭っていった。
ジュダスは杖を掲げた。
それはもはや世界に抗う武器ではなく、祈りのための標であった。
「行け、リヴァ。たとえ咎に縛られていようと、君の歩くその道は――まだ終わらない」
リヴァは振り返らなかった。
ただ一度だけ、ジュダスの背中に視線を向けると、無言で踵を返し、塔を後にした。
その足音だけが、静かに、確かに残る。
ジュダスは目を細め、その背に祈るように呟いた。
「我らが再び相見える時――それが、審判の日でないことを、願おう」
風が吹く。
神を戴いていたはずのこの塔には、もはや誰の声も届かない。
ただ静謐と、かつて失われた者たちの余韻だけが、静かに残されていた。
――だが、それは終焉ではなかった。
ひとつの深淵が拒まれ、ひとりの剣士が歩みを止めなかったという事実は、確かにこの世界の “ 理 ” の一角に刻まれた。
そしていつかまた、その記憶が、別の闇を照らす光となるのかもしれない。
