それは、夜半の夢に紛れて忍び寄る囁きだった。
冷たい水底から、静かに、しかし確かに——
リヴァの胸の奥へと、何かが訴えかけてくる。
目を覚ました彼は、しばし天井を見つめたまま、動かなかった。
再びあの女に会わなければならない。
理由などなかった。
ただ、心に深く刻まれた確信だけがそこにあった。
夜空には蒼白い月が雲間に浮かんでいた。
空気は冷たく、ひやりとした風が頬をかすめる。
リヴァは、壁に立てかけていた剣に手を伸ばし、音もなく立ち上がる。
そして月を一瞥し、誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「……行くぞ」
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「南の境界へ向かう」
翌朝、リヴァは短くそう告げた。
焚き火の残り香が漂う中、カーヴァとヴォルグは互いに視線を交わし、わずかに表情を強張らせた。
風の向こうにある名を、二人ともすぐに思い浮かべていたのだ。
カーヴァが低く問いかける。
「……本気か? あそこには《骸禍のネイラ》がいると聞く」
「骸禍?」
リヴァの声が、かすかに揺れる。
ヴォルグが応えた。
「水底より死者を喚ぶ巫女王。魔界四傑のひとりだ……俺たちと、同じ名を持つ者」
カーヴァが、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「俺たち魔界四傑は《魔界の災禍》と呼ばれていた。だが、ネイラだけは……別格だった」
リヴァは何も言わなかった。
ただ、霧の中で出会った、あの静かな女の面影が心に浮かぶ。
だが、行かずにはいられなかった。
何かが、彼を強く引き寄せていた。
「……行く。理由は問うな」
ヴォルグは肩をすくめた。
「止める気はない。ただし、俺たちも行く」
「……いいだろう」
三人は静かに、南を目指した。
森を越え、丘を越え、やがて、霧の深まる地へと歩みを進めていく。
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その夜。
風が止み、霧が音もなく這い寄る中、焚き火の炎は細く揺れていた。
三人は無言で夜を囲み、それぞれの思考に沈んでいた。
やがて、焚き火の小さな音すら遠のく——
その時、誰かの足音が霧の中から近づいてきた。
三人は一斉に立ち上がり、武器に手をかける。
緊張が、夜気よりも重く張り詰めた。
霧が割れ、黒い外套をまとった旅人が姿を現す。
その顔は、深くかぶったフードに覆われ、火の光に照らされても、輪郭すら定かではなかった。
まるで、現実に属さぬ何かのように——
「……探していた」
男は静かに言った。
その声はやわらかく、それでいて耳の奥に氷の爪を滑らせるような冷たさを孕んでいた。
その目だけが、霧の奥で、まっすぐリヴァを射抜いている。
「汝らの道は、ここでは終わらぬ。 汝らは、交わらなければならない。 失われた輪を……取り戻すために」
誰も言葉を返さなかった。
カーヴァも、ヴォルグも、旅人を睨みつけるように見据えている。
だが男は、恐れる様子もなく、ただリヴァにだけ語りかける。
「スヴァイン湖へ行け。 湖の彼方に、お前たちの道がある」
そう言い残すと、男は再び霧に紛れて、静かに消えていった。
まるで初めから、風の幻であったかのように。
その言葉の意味を、三人はすぐに理解したわけではなかった。
だがリヴァの脳裏には、かつて地図で見た一帯の地形が浮かんでいた。
——霧深き湖《スヴァイン湖》。
その南岸には、かつて巫女王が治めたという〈死者の神殿〉があるという。
誰も近づかぬ禁域。
死者の声が満ちる、呪われた聖域。
リヴァは、確信していた。
「行くべき場所は……あそこだ」
しばらくして、焚き火の火が通常の揺らぎを取り戻す。
リヴァは無言で剣を背に戻すと、焚き火の前に立ち尽くした。
風は再び吹き始め、霧をわずかに払いのける。
南の空には、赤く滲んだ月が、沈みかけていた。
その光はまるで、深淵の呼び声に応えるかのようだった。
