そのときだった。
湖の奥、〈死者の神殿〉の方角から、かすかな震えが伝わってきた。
それは、風とも違う。
大地のうねりとも違う。
まるで、水底に沈んでいた “ 何か ” が、ゆっくりと身をよじり、目覚めようとしているかのような——
リヴァは微かに息を呑んだ。
静けさの中に、確かに異物がある。
霧の帳が、ひとしきり濃さを増し、まるでその奥に何かを隠そうとしているかのように、視界がじわりと閉ざされていく。
カーヴァが低く鼻を鳴らした。
「……空気が変わったな。誰かが……いや、“何か”が来るぞ」
ヴォルグも黙して頷き、鋭い眼差しを霧の向こうへと向けた。
彼の眼光は獣のように、脅威の接近を正確に嗅ぎ取っている。
空気がわずかに震えた。
霧の海に、別種の気配が静かに染み込んでいく――
それは、じわじわと皮膚を這うような、不快で冷たいものだった。
リヴァは反射的に剣の柄に手を添える。
カーヴァとヴォルグも、わずかな躊躇もなく身構えた。
ただ一人、ネイラだけが動かず、目を細めたまま立ち尽くす。
「何かがいる…」
カーヴァが唇を歪め、吐き捨てるように言った。
霧の向こうに、形を成さぬ“何か”が確かに蠢いていた。
やがて――
ざぁ……ざぁ……
水を踏みしめるような足音が、遠くから近づいてくる。
不規則で、不気味なその響きが、霧を割り、場の緊張を引き裂いた。
そして現れたのは、一つの影。
だがその佇まいは、人のものではない。
その存在そのものが、霧に滲み、腐敗と死の匂いを纏っていた。
カーヴァが舌打ちをする。
「また黒き外套の奴か……いや、違ぇな。こいつは、“向こう側”のものだ」
リヴァも、剣を抜いた。金属の音が静寂を裂く。
「これは……何者かに“呼ばれた”存在だ」
そのとき、ネイラが口を開いた。
その声は凛として澄んでいたが、底には凍てつくような冷たさが潜んでいた。
「死者を……いいえ、屍を操るもの」
「屍を操るもの?」
リヴァが低く問い返す。
声は静かだが、わずかに揺れていた。
「そう」
ネイラが頷く。
その眼差しは、霧の奥にある “ 何か ” を見据えている。
「死者の神殿には “ 屍導士(しどうし)) ” と呼ばれる姿なき存在がいる。 死した肉に呪を施し、意思なきまま動かす、古き禁術の使い手…」
「それが、この霧の正体なのか……?」
リヴァが霧を見上げる。
白い帳は、まるで世界そのものを呑み込むかのように、なおも濃さを増していた。
「かもしれんな。ただの霧なら、焔がこれほど揺らいだりはしない」
ヴォルグが鋭く言い放ち、炎を纏う戦斧にそっと手をかける。
一行の足元に影のようなものがうごめき始める。
土から這い出すように、朽ち果てた骸たち――
それは、かつてネイラが葬った魔界の亡者たちだった。
リヴァはネイラへと視線を向ける。
「……ネイラ。あんたの力が、今こそ必要だ」
ネイラは言葉を返さなかった。
だが、ゆっくりと一歩、前へと足を運ぶ。
「……骸は、私の領域。 ならば、それを片付けるのも――私の役目」
その瞬間、空気が一変した。
水底のような、重く冷たい圧が辺りに満ちる。
霧の奥から、白く細い手が無数に伸び出し、亡者たちの呻きが夜を満たす。
リヴァ、カーヴァ、ヴォルグは、背中を預け合うようにして陣形を整えた。
剣を構え、息を整える。
「来るぞ!」
地を裂くような咆哮と共に、戦いが始まった。
死者たちの呻きと、剣が霧を裂く音が、夜の闇に交錯する。
無数の亡者が、波のようにリヴァたちへと押し寄せてきた。
霧はまだ、すべてを覆っている。
何が待つのかを、語らぬままに。
